宇都宮家庭裁判所 平成3年(少)1040号 決定 1991年8月14日
本人 H・Z(生年月日不詳)
主文
この事件を宇都宮地方検察官に送致する。
理由
(犯罪事実)
上記本人は
第1○○工業の名称で鉄板加工業を営むCに雇用され工員として稼働していた者であるが、平成2年12月18日午後8時ころ、鹿沼市○○×××番地×所在の○△工業第2工場内○○工業作業場において、同作業場の工員であるA(当時33年)がタイ国からその義弟を呼び寄せたことから、自己の職が奪われて失職するものと思いこみ、右Aらと口論のうえ喧嘩となり、憤慨のあまり、Aが死にいたることを予見しながらそれも止むを得ないと決意し、所携のナイフ(刃体の長さ約15・5センチメートル)で同人の背部を2回突き刺し、よって同日午後8時33分ころ、同市○○町×丁目××××番地○○総合病院において、同人を背部刺創による大動脈損傷に基づく失血により死亡させたものである。
第2パキスタン・イスラム共和国国籍を有する外国人であるところ、昭和63年12月22日、同国政府発行の旅券を所持して、千葉県成田市所在新東京国際空港に上陸して本邦に入ったものであるが、在留期限は昭和64年1月6日までであったのに、同日までに本邦から出国せず、平成2年12月19日まで、前期○△工業第2工場内の○○工業従業員宿舎等に居住し、もって在留期間を経過して不法に本邦に残留したものである。
(適条)
第1の事実につき 刑法199条
第2の事実につき 出入国管理及び難民認定法70条5号
(本人の年齢の認定及び少年法の適用について)
当裁判所は本人の年齢を1971年生まれの満19歳または20歳と認定したので、以下にその理由を明らかにする。
家庭裁判所調査官○○、同○○作成の調査報告書、同○○、同○○作成の調査報告書、同○○、同○○作成の調査報告書、同○○作成の調査報告書、同○○、同○○、同○○、同○○作成の意見書、鑑定人医師○○作成の簡易鑑定書によると、次の事実を認めることができる。
1 本人の出身地であるパキスタン・イスラム共和国グジュランワラ市には、我が国のような戸籍の制度はなく、市保健局に属する保健官が管理する出生登録台帳制度がある。新生児は生後7日以内に保健官事務所に登録することを義務付けられているが、出生後相当長期間を経て登録することも可能であり、同制度の正確性については疑問がある。
2 パキスタン・イスラム共和国では、1976年上記出生登録台帳制度以外の制度として国民登録制度が導入された。しかし1970年代、1980年代には出生年のみ登録されることが多かった。
3 本件において、本人の年齢を知るための客観的資料としては次のものがある。
(1) 本人の「パスポート」(これによれば本人は1970年生とされている。)
(2) グジュランワラ市発行の1991年2月27日届け出による「出生証明書」(これによれば本人は1974年1月10日生とされている。)
(3) 同市発行の1971年5月28日届け出による「出生証明書」(これによればBは1971年5月27日生とされている。)
(4) △△ハイスクール発行の「人格証明書」(これによれば本人は1971年5月27日生とされている。)
(5) グジュランワラ地区登録局発行の「国民証明書」(これによれば本人は1971年生とされている。)
(6) 鑑定人医師○○作成の「簡易鑑定書」(これによれば本人の年齢は鑑定時において満18歳プラス・マイナス1歳、満16歳以上である確率は90パーセント以上とされている。)
以上の事実が認められるところ、これらの事実に本件記録中の関係資料を勘案して本人の年齢をどのように割り出すべきかについて検討する。
本人の供述によれば、前記(1)の「パスポート」は、これを取得する際、係員の鑑定時(平成3年8月7日)における年齢は満18歳プラス・マイナス1歳であり、本人が満16歳以上である確率及び満20歳未満である確率が共に90パーセント以上であるとされている。この鑑定結果は本人の年齢を確定するうえで無視しえない資料である。
そこで、前記(5)の「国民証明書」(6)の「簡易鑑定書」及び社会調査の結果を併せると、骨格などの発達に個人差があることを考えると鑑定結果をそのまま全面的に採用することはできないから、本人は1971年生まれであり、現在満19歳である可能性があり、満20歳である可能性もあると認定するのが妥当である。そうすると、本件は、本人が少年か成人かいずれとも判定できない場合に当たりるが、このような場合には、本人の利益に従い、少年として扱い、少年法を適用すべきである。
(送致の理由)
本人の上記所為は、その罪質及び情状にてらすと、特に計画的なものではないなど本人に有利な諸事情を考慮しても刑事処分相当と認めざるを得ないので少年法20条により主文のとおり決定する。
(裁判官 北野俊光)
〔参考1〕調査報告書
調査報告書
裁判官 北野俊光殿
平成3年8月8日
宇都宮家庭裁判所
家庭裁判所調査官○○
同○○
平成3年少第1040号少年H・Z
本少年に関し、次のとおり調査したので報告する。
日時 平成3年7月29日
場所 宇都宮少年鑑別所
陳述者 H・Z(不詳)
少年との関係 本人 職業 工員
国籍 パキスタンイスラム回教国
住居・電話 栃木県鹿沼市○○×××番地× ○○工業従業員宿舎
通訳 ○○(38歳)
陳述の要旨
1 現在の心境
自分の手で人を殺してしまうとは、自分自身、信じられない。とんでもないことをしてしまったと思う。現在は、早くこのことについて決着がついて欲しいと考えている。鑑別所内での生活については、全く不満はない。これまでで最も快適な生活である。
2 自分の年齢について
(1) かつては自分の生年月日についての正確な認識はなかったが、私は1971年5月27日生まれであると思う。この年月日は、事件後の平成3年2月に父と○○警察署で面会した際に父から教えられたものであるが、これを聞いた時に特別の感情を抱くことはなかった。つまり、それまでの認識と著しく異なるものではなかったのである。
(2) 私の家では、特に誕生日を祝うということはなかったので、5月27日についての認識はなかった。
(3) 出生届けには1974年生まれとあるが、これは、事件後、友人が自分を助けるために届けてくれたものであり、事実ではない。
(4) パスポートの申請の段階、すなわち、1988年12月には自分は17歳であると認識していた。
(5) 母が死亡した1983年又は1984年の6月には、私は、12歳又は13歳であった。
(6) ○○ハイスクールを中退した1985年又は1986年の時点では、自分は14歳又は15歳であった。5歳又は6歳の時に学校に入学し、約9年間ハイスクールに在籍していた。
(7) アフガニスタン革命(1978年4月)については、漫然とそのようなことがあったような気がする。イラン革命(1979年)、独立40周年記念式典(1987年8月14日)の記憶はない。
3 来日するまでの生活史
私の生い立ちは次のとおりである。
1971年5月27日・○○において父B・M、母R子の間に出生した。
・保育学校や幼稚園には入らなかった。
5歳のころ・(私立)○○ハイスクール(クジランワラ市)に入学した。
同校では英語も学んだ。
・2、3年の間在籍していたが、自宅から約4km離れており、遠いので転出した。
7歳又は8歳のころ・(私立)○△ハイスクール(クジランワラ市)に転入。同校でも英語を学んだ。
・3、4年間在籍したが、授業料が高いため転出。
11歳又は12歳のころ・(国立)△○ハイスクール(クジランワラ市)に転校。
12歳又は13歳のころ・(国立)△△ハイスクール(クジランワラ市)に、同校に在職している父の知人の紹介で転入し、約2年間在籍した。
1985又は1986年(14歳又は15歳のころ)・学習意欲を失って退学。数日後にクジランワラ市内のスクラップ店に就職し、約2年半稼働した。金属廃品を買入し、それを種類別に分けて販売する仕事だが、見習いなので給与は週に150円程度だった。
・勤務先の近所に住む人から日本への出稼ぎを勧められた。私が出国する数箇月前に兄のT・Iが日本に渡っており、兄から国際電話で兄の様子について聞いた。
・スクラップ業を自営したいと考えて、日本へ行くことを決心した。
1988年12月・パスポート取得。この時点で、自分は17歳であると認識していた。
4 家族関係について
私の家族は、次のとおりである。
父 B・M 56歳位製糸業自営
兄 H・K 32歳位家業手伝い
兄 H・H 28歳位家業手伝い
姉 S子 26歳位既婚で別居
兄 T・I 23歳位来日中
弟 B・I 16歳位家業手伝い
妹 R・M子 9歳位3年在学
家族の年齢はおおよそであり、正確かどうか、自信がない。
私は、兄T・Iより3歳又は4歳年下であり、弟B・Iより同じく3歳又は4歳年上であると思う。
父は家族を含めて9人から10人の人を使い、糸の製造業を営んでいる。私の家庭は中流家庭であると思う。
母は1983年又は1984年の6月に心臓病のために死亡した。母は、言葉にしなくとも気持ちを分かってくれる素晴らしい人で、精神的に家族の柱だった。母が死亡してから、何か物足りない感じで寂しくなり、また、家族がばらばらで変になってしまった。今回、このような事件を起こしてしまったのは、母が死んでしまったためだと思う。
5 本件について
(1) 殺人保護事件(かっこ内は当職による注釈)
仕事を終えて宿舎に戻ると、同室のD(パキスタン人)も帰ってきた。同人が、新しいタイ人の労働者が来たらしい、というので、私は、工場に向かった。
私は、E(タイ人)に、この人(Fのこと)は誰だ、と尋ねたところ、同人は、A(タイ人、被害者)の友人だと答えたので、私は、Aに近づき、日本語で2、3分何か話をし、一旦部屋に戻った。
以前、私は雇主であるCから、12月29日限りで解雇されると言われていたが、Cは私に対してよく嘘をついたので、新しい労働者が来たことによって、私は29日を待たずに翌日から解雇されるのではないか、と考えた。約束の時期に解雇されることについては了承していたが、翌日解雇されては困るので、Aを脅かして、29日まで新しい労働者が職場に来ないようにしようと考えた。
ナイフを持って工場に戻ると、A、F(Aの妻の弟)、Eの3人がタイ語で話していた。
私は、改めてAと話をしようとしたが、同人は私を相手にしようとしなかったので、私は、同人の胸ぐらをつかみ、話を聞いているのか、と尋ねた。しかし、同人は聞いてくれず、タイ人らとタイ語で話し続けていたので、私は、腹に隠し持っていたナイフを取り出し、そ柄でAの眉間を殴った。
その時、Eが間に入り、Dも来た。Aは私に対して、やめて、と手を合わせた。G(タイ人)も来て、やめろと言ったが、そのとき、私は、Gに対してナイフを突き出して脅かそうとしたところ、運が悪く、足に刺さってしまった。
そして、Gは柄のついた長い万力を持って私に殴りかかって来たので、私はこれを腕で防いだところ、後方の離れたところにナイフを落としてしまった。私がナイフを拾おうとすると、Eとハンマ一をもったAとF、それに万力を持ったGが4人で殴り掛かかってきて、体全体を殴られた。
私がナイフを拾うと、後ろから誰かに抱き抑えられたので、それをナイフを持った方の腕で払ったところ、ナイフの柄がその人に当たった。前を見るとAが立っており私は、タイ人に殺される、邪魔をされたら攻撃してでもここから逃げよう、と思った。そこで、ナイフでAの腕を刺して、その隙に逃げようとしたら、同人が身をひるがえしたので、同人の背中にナイフが刺さってしまった。
そして工場から逃げようとしたとき、Eにナイフを取り上げられ、後ろから誰かにはがいじめにされたところ、Fが、ハンマーで正面から私の頭を殴った。
なお、本件に使用したナイフは、昭和63年8月ころ、ホームシックにかかって帰国しようとした際、土産のひとつとして埼玉県大宮市で購入したものである。(当職は少年に対して、「欧米の不良少年は、けんかや脅しに用いるためにジャックナイフを所持することが多いようだが、パキスタンではどうか。」と尋ねた。)パキスタンではそのようなことはない。
私はAを殺そうという気持ちはなかった。ここから逃げようという気持ちであった。邪魔をされれば攻撃しようという考えはあった。また、タイ人から殺されるかも知れないとも考えていた。
また、私は、Aを1度しか刺した覚えはない。揉み合いになって2回刺さったのかも知れないが、やはり1度しか刺した覚えはない。(少年は当職に対して、被害者の写真を見せて欲しい、と強く要求したので、当職は、本件事件記録掲載の被害者の全身写真及び被害状況(創口)を撮影した写真のみを提示した。)刺創は2つあり、しかも、2つの刺創は浅い切傷でつながっているので、一度深く刺さってから引き抜かれ、再び別の場所に刺さったのは分かる。しかし、私は、2度刺した覚えはない。
(2) 出入国管理法及び難民認定法違反保護事件
当初、2年ぐらい滞在するつもりで来日した。観光ビザの申請をしたのは、労働ビザを取得できないのを知っていたからである。日本に出稼ぎに行くときは、観光ビザで行くということは、パキスタンでは、誰でもやっていることである。
しかし、出国の時は怖かった。将来のことももちろんであるが、日本に入国する時に問題があって入国の許可をされなかったら、旅費を損してしまうからである。
日本に行くことは、父には言わなかった。父に知れると、もし、入国拒否された場合に旅費の損失が大きいことで、叱られると思ったからである。したがって、父には、姉のところに遊びに行っていると伝えてくれるよう、兄に頼んだ。そうしておけば、仮に入国が許可されずに送還されても、つじつまをあわせることができるからである。
そして、無事入国して2、3日経ってから、国際電話を通じて自宅に連絡をした。
以上
〔参考2〕調査報告書
調査報告書
裁判官 北野俊光殿
平成3年8月8日
宇都宮家庭裁判所
家庭裁判所調査官○○
同○○
平成3年少第1040号少年H・Z
本少年に関し、次のとおり調査したので報告する。
日時 平成3年7月31日
場所 当庁
陳述者 B・M(58歳)
少年との関係 実父 職業 製糸業自営
国籍 パキスタンイスラム回教国
住居・電話 東京都北区○○×丁目×番×号
通訳 ○△(31歳)
陳述の要旨
注)実父は本件事件後、少年のことを心配して来日したとのことである。実父に対する面接については、実父が同伴して来た○△氏の通訳を介して行われた。アリ氏は、パキスタン本国で、少年の家の近所に住んでいる隣人ということであり、やはり本件事件後来日した。現在は、実父とともに、東京都北区○○×丁目×番×号、×××号室のアパートに同居しており、今後実父と一緒に在留資格の延長の申請を行い、少年の裁判、審判を見守り、実父を援助していくつもり、とのことである。実父及び○△氏からは、外国人登録証明書の呈示があったので、同書の写し参照。それによると、現在実父は58歳、○△氏は31歳である。
ただし、○△氏は、来日経験が浅く日本語は片言、英語教育を受けたとのことで、英語はある程度出来るようだった。しかし実父は、全くパキスタンの現地語しか喋れない。それで、面接は、○△氏に英語で質問し、それを現地語に通訳してもらい、また英語で回答してもらうという形を取らざるを得なかった。しかし、面接を担当した調査官両名も十分英語に習熟しているとは言えず、相互に英語、日本語の片言が入り混じった会話となった。従って、難しい表現を必要とする質問はほとんどできず、面接結果の正確さ、信頼性は、やや落ちることを断っておく。さらに、通訳の○△氏自身、少年を幼い頃がら知っているということで、通訳せず○△氏自身が回答したり、最後は少年を熱心に弁護しいる姿勢がみられ、その点でもいわゆる歪みが加わっている部分があるかもしれない。それで、以下の記述は、実父に通訳をきちんと通して回答された内容に限定した。また、○△氏自身の陳述については、補足的に別項をもうけた。
1. 実父B・Mに対する質問、及び回答の要旨
問.少年の正確な生年月日。
答.判らない。
問.家族構成と各人の生年月日、現在の年齢。
答.父B・M、年齢57歳。兄H・K、年齢大体30歳位。兄H・H、年齢27歳か28歳。姉S子、年齢24歳か25歳。兄T・I、年齢21歳か22歳。そして少年。弟B・I、年齢15歳か16歳。妹R・M子、年齢12歳。少年の実母は、6年位前に死んだ。
問.少年の同胞について、1人でも正確な生年月日を覚えていないか。また、実母の命日は正確にいつか。
答.子供たちのことは、母親が全て面倒見るもので、父親は、細かいことまで知らないのが普通だ。実母は、「イードル・フェター」という行事の少し後に亡くなったが、何年何月何日とは答えられない。少年の生年月日も正確に判らない。
問.少年のすぐ上の兄T・Iと少年は、何歳離れているか。また、すぐ下の弟B・Iとは、何歳離れているか。
答.兄T・Iとは3歳5ヶ月位離れていてる。弟B・Iとは、3歳と数ヶ月離れているが、何ヶ月までは判らない。
問.少年の生れた年だけでも記憶していないか、場所は病院で生れたのか、自宅で生れたのか、季節はいつ頃か。
答.はっきりよく判らない。生れたのは自宅で、季節は冬と思う。パキスタンの冬とは、1月から3月である。
問.少年の出生証明書2種及び学校が発行した人格証明書がここにあるが、どの生年月日が正しいのか。
答.よく判らない。いずれも違うようにも思う。現在は大体19歳としか答えられない。
問.少年は、何歳頃学校に入学し、何歳頃最終的に学校を出たのか。転校をしている事実があるか、転校する際に間が開いた期間があるか。最後は卒業か、中退か。
答.小学校には4歳か5歳頃に入学した。転校の事実はあったが、間が開いたということはない。最終的には学校を中退したが、その時が何歳だったかよく判らない。14歳から16歳の頃だと思うが、学校のことも母親しか詳しく判らない。
問.実父の職業、本国での経済水準は。現在日本での生活はどうしているのか。
答.本国では、自宅で糸を紡ぐ仕事をしており、兄弟がそれを手伝っている。経済水準としては、中程度と思う。現在日本では仕事はしていない。本国からの送金で生活しているが、日本は物価が高く、とても苦しい。
2、通訳人○△の陳述要旨
注)○△氏は最初、少年の出生証明書2種及び人格証明書のなかで、1974年1月10日生が正しいものと思うと指摘したが、面接調査で質問を続けていくうちに、紙に書いて計算しはじめ、突然少年は現在19歳6ヶ月であると言い出した。調査官が、それを逆算して、つまり1972年1月生ということか、と質問するとうなづいたが、根拠については最後まで聴かれなかった。ただ、少年が生れたのは、1971年12月にあった「インド・パキスタン戦争」の後だと記憶していると主張したが、その点、実父に正してもらったが、実父自身母親がいつの時期に妊娠していたかも覚えていない、「印・パ戦争」との関係でも思い出さないということだった。アリ氏の主張は、実父が、少年の生れた季節を冬と答えたため、そこからこじつけたもののようにも感じられたが、それを追求する術もなかった。
なお、○△氏によると、パキスタンでも年齢は、出生時0歳とし、西暦で年齢を勘定する。社会生活でも、西暦がほとんど使用されており、イスラム暦は、古い行事のときだけということだった。また、誕生日を毎年祝うことはなく、徴兵制をはじめ年齢の節目となる制度もないとのこと。
自分は、スクラップ業をしている。少年もスクラップ業をはじめることを目標にしていたと聴いたが、パキスタンではスクラップ業は儲かる商売のひとつである。
事件の内容は詳しく知らないが、少年のことは、幼い時から知っており、とても真面目であり、穏やかな性格、喧嘩などしたところを見たことはなかった。殺人ができるような人物とは考えられない(最後、少年は「ベリー、ジェントル」である(「ジェントル」は、優しいとか穏やかなという意味)、と熱心に感情を込めて繰り返していた)。
注)面接終了後、両名は今後も呼び出しがあれば、いつでも出頭する、ただしアパートに電話がないので、手紙でお願いしたい。また、電話であれば○○というパキスタン人の友人に伝言してほしい、とのことだった。○○という人は、日本語が流暢で、通訳も頼みたいところだが多忙とのことで、同人に対するの電話は、03-××××-××××(東京都、赤羽)又は××××-××-××××(茨城県、常陸○○)、どちらかの職場にいるということである。
そして、最後に、検察庁からの書面を見せ、これを根拠として在留資格の延長を申請しに、今からすぐ東京の役所に行くのだと言って、退出した。
以上
〔参考3〕調査報告書
調査報告書
裁判官 北野俊光殿
平成3年8月8日
宇都宮家庭裁判所
家庭裁判所調査官○○
同○○
平成3年少第1040号殺人、出入国管理及び難民認定法違反保護事件
少年 H・Z
本少年に関し、次のとおり調査したので報告する。
日時 平成3年8月5日
場所 パキスタン大使館
陳述者 3等書記官○○
少年との関係 職業
住居・電話 東京都港区○○×-××-×(××-××××-××××)
陳述の要旨
(当職らは、一件記録中の、旅券、I.Dカード、出生証明書、人格証明書などのコピーを持参し、適宜陳述者にそれらを見てもらいながら、聴取した。)
1 パキスタンの学校制度は、小学校が5年次に高等学校が5年続き、卒業したあとはインターミディエートカレッジの2年や更に大学に進むものもいる。国内は制度は同じである。義務教育は無く、小学校に入学する年齢も決まっておらず、4才で入学するものもいるし、7、8才になって入学するものもいる。概して、都会では就学が早く、田舎では遅くなる傾向がある。高等学校の5年間のうち、前の3年間が中学校、後の2年間が高校に当たると考えてよい。前の3年間を終わった段階で中退するという例も多い。被疑青年が5才で入学し、高校を2年残して中退したとすれば、そのときの年令は、本人が落第などの失敗をしていないかぎり、13才の時であると言える。
2 パキスタンには戸籍制度的なものはない。出生地が大都市ならば、レジストレーション・オフイス(登記所?)に、小さい町なら、ユニオン・コンサル(合同庁舎?)に届け出るようになっているが、守ったり守らなかったりである。最近では市役所とレジストレーションオフイスの両方に届けるようになっている。パスポートを取る前に、アイデンティティカード(I.Dカード)が必要である。I.Dカードは1970年代になり急激に国外渡航者が増加してきたことから、政府機関であるレジストレーションオフィスがその事務を扱うようになったものである。法務省の一部であり、大きな市には設置されている。最近では、自分の名前、父の名前、子供の名や生年月日を登録する必要があるが、以前には子の名前、生年月日等は書いていなかったので、被疑青年の場合は、本人の申告でIDカードを作成した結果、異なった生年月日になったものと思う。
3 高等学校を卒業していれば、その段階で試験があり、合格すると卒業資格証明書のようなものが発行される。これは、教育団体(日本の教育委員会のごときものか)から発行されるもので、権威がある。卒業していないものにはそのようなものはなく、学校に申請して証明書をだしてもらうことは出来る。「人格証明書」はそのようなものと思う。これを書く根拠となっているものは、小学校に入学した時の親の申請に基づく登録事項である。したがって提出されている書類の中では、この高校の証明書がもっとも信頼性が高いと言える。
4 この青年は改名をしているとのことであるが、改名ということはあることはあるが珍しいことである。特に高校を卒業している場合は、名前を変えることは難しく、裁判所の許可がいる。2才頃に改名したということなら、それはそれで可能なことと思う。改名前の名前と改名後の名前とが同一人のものであるかどうかは、グジランワラ市の市役所に照会すれば分かるのではないか。何か書類が残っているのではないかと思う。また、この生年月日は、高校の証明書の生年月日と同じであり、正しいものと思う。
5 父親が子供の生年月日を知らないということは、一般的ではなく、人によって違うと思う。子供が多いとか、教育をうけていない親の場合にはそういう人も居るかもしれない。
6 この青年は、4校を転校していると言っているようだが、転校は珍しいことではなく、そういう事もありうることである。
7 パキスタンにおいて、裁判上年令がはっきりしないような場合どうするかについては、法律上のことについては十分知らないのではっきり言えないが、大体は高校の卒業証明書とかその他でわかると思う。どうしても分からない場合は医者による診断という事もあると思う。
8 入学は、以前は4月であったが今はどうか分からない。
9 徴兵制度、徴兵検査等はない。
10 NNNNNNNNNNNNはH・JまたはH・Zと読んでいい。
以上
〔参考4〕調査報告書
調査報告書
裁判官 北野俊光殿
平成3年8月13日
宇都宮家庭裁判所
家庭裁判所調査官○○
平成3年少第1040号殺人、出入国管理及び難民認定法違反保護事件
少年 H・Z
本少年に関し、次のとおり調査したので報告する。
日時 平成3年8月12日
場所 パキスタン大使館
陳述者 3等書記官○○
少年との関係 職業
住居・電話 東京都港区○○×-××-×(××-××××-××××)
陳述の要旨
(当職は、別紙「H・Zが登録局へ提出した文書(編略)」を持参し、陳述者に提示したところ)
1 この書類は、前回お話ししたレジストレーション・オフイスに登録するときの書類である。書かれていることを簡単に説明すると、いちばん上には「もしだれか、申請したものが嘘を書いたら、起訴される。」と警告が書いてあり、その下にレジストレーションオフィスの名前が書いてある。次に、「わたしの家にはこの人間が住んでいる。」と表示され、以下に家族の名前が書かれている。表の上半分と下半分とが分かれており、上半分には18才以上のひとを書き、下には18才未満のひとを書くようになっている。上から順にいくと、右側部分に名前B・M、左の小さい欄は右から順に、家での立場(長)、性別(男)、年令(44)、宗教(回教)、既婚、教育(うけていない)、母国語(パンジャビ語)、次の欄は読めないのでわからないが以下そのように書いてある。次の段は、R・B(当職にはこのように聞こえた)、妻、女、36才宗教(同じ)、既婚、教育(小学校)、母国語(同じ)、となっている。(以下の段について直接コピーした紙に書き入れた。)表の下には、父の名前と住所が書かれている。左下には上に書かれたことが正しいことを証明している人の名前と住所が書かれている。一番左下の日付は、届け出がされた日である。なお、上部の左側に書かれているのは、登録番号と登録された日付である。
2 この届け出には、産婆などの証明書類が添付されるようなことはないと言える。その代わり、第三者が記載内容の正しいことを証明しているのである。
3 表の中の年令が書いてあるところは、本来は生年月日を書かなければならないが、この人は年令を書いている。70年代、80年代では、そういう生年月日まで書いてないことが多いと言えよう。現在では、生年月日まで書いている。
4 (Hという子が1976年3月26日現在で5才となっているがこの子の生年は?)1971年生まれである。(1970年生まれということも考えられるのではないか?)いや、71年生まれである。というのは同人の右の欄の数字のうち-71-と書かれているのが、71年生まれということを示しているのである。
5 年令の数え方は、大体は誕生日がきて1才というように数えるとおもう。1月1日を基準にするということは無いと思う。
6 この書類が、実物であるかどうかは、直接その物を見てみないと分からないが、本物であるとしたら、これを信用するしかないと思う。
以上
〔参考5〕意見書
意見書
裁判官 北野俊光殿
平成3年8月14日
宇都宮家庭裁判所
家庭裁判所調査官○○
同○○
同○○
同○○
平成3年少第1040号殺人等保護事件
少年 H・Z生年月日不詳
住居 栃木県鹿沼市○○×××番地×○○工業従業員宿舎
本少年に対しては少年法第20条により、検察官送致決定を相当と思料する。
第1少年の年齢について
1 捜査段階、及び刑事手続きにおける、少年の年齢についての主張の変遷
(1) 逮捕当時の少年の主張する自分の生年月日は1970年以下不詳であった。
(2) 平成2年12月20日付の検察官調書でも、少年は「1970年生まれだが、以下の月日はわからない。20才であることは間違いない。」
と供述している。
(3) 同年12月26日の兄T・Iの供述調書でも、同兄の生年月日は、1968年8月28日であり、少年の年齢は20歳であると供述された。
(4) 平成2年12月26日に少年のパスポートが提出され、それには1970年生まれとのみ記載されていた。
(5) また、1990年12月1日現在の、法務省出入国管理局の出入国記録調査書には、1970.00.00と記載されていた。
(6) その後提出された出生証明書では、次のようになっている。
ア 1991年2月27日届け出の出生証明書1974年1月10日生
イ 1971年5月28日届け出の出生証明書1971年5月27日生
(ただし、名前がBとなっている。)
少年は前者は少年の友人が少年を助けようとして、偽りの届をしたものであると述べている。
(7) 少年の最後に在籍していた△△ハイスクールが発行した「人格証明書」では、少年の生年月日は1971年5月27日となっている。
2 家庭裁判所における少年及び付添人の年齢についての主張
(1) 少年は1971年5月27日生であると主張している。その根拠などは社会調査の項でまとめる。
(2) 付添人も少年の同様に1971年5月27日生であると主張している。その根拠は、1974年5月27日届け出の出生証明書と人格証明書に信憑性があるという、ものである。
3 グジランワラ地区登録局発行の国民証明書について
(1) 平成3年8月8日付け追送致されたグジランワラ地区登録局発行の国民証明書は、国家機関発行の書面であり、1976年3月に登録されたものであることなどから、証拠能力は高いと考えられる。
(2) 1991年7月3日付けのICPO日本国家中央事務局長宛、ICPOパキスタン国家中央事務局長の書簡によれば、少年の生年は「1970年」となっているが、パキスタン大使館○○3等書記官によると、同国民証明書の登録番号には各国民の生年が明示されており、少年の番号には(19)71年と記載されていることから、少年の生年月日は1970年ではなく、1971年であるとのことであった。しかし、これによっては、月日は不明である。
(3) 同じく、パキスタン大使館によると、パキスタンにおける年齢の数え方は日本のそれと同様である。1976年3月に5歳に達していたとすると、少年の生年月日は1971年3月以前ということになるが、これについては断定できないとのことであった。
(4) してみると、国民証明書のみによっては、少年の年齢が20歳に達しているとは認定できないとの結論になる。
(5) 1971年との生年は△△ハイスクールが発行した「人格証明書」、及び、1974年5月27日届け出の出生証明書の生年月日1971年5月27日の1971年に符号している。これらを総合して少年の生年月日を1971年5月27日と認定することも考えられるが、鑑定結果、社会調査の結果などを総合すると、結論的には1971年5月27日と認定するのは妥当ではない。
4 社会調査結果
社会調査の結果、少年の年齢は特定できなかった。社会調査から推定される少年の年齢は19歳又は20歳である。社会調査の結果は次のとおりである。
(1) 少年は自分の生年月日を「1971年5月27日」であると主張している。ただし同生年月日は「事件後の平成3年2月に面会に来た実父から○○警察署において聞いて初めて知ったもので、それまでは自分の生年月日を正確に知らなかった。母国のパキスタンでは誕生日を祝う習慣がないため、月日の認識もなかった」とのことである。
(2) ところが、少年に生年月日を教えたという実父は、少年の正確な生年月日は知らないとのことであり、少年のすぐ上の兄T・Iが21歳ないし22歳で、少年はそれより3歳5ヶ月年下、すぐ下の弟B・Iが15歳ないし16歳、少年はそれよりも3歳と数ヶ月年上との説明をした。結果的に、少年の年齢は18歳ないし19歳であるということになる。
少年が聞いたとする「1971年5月27日」については説明が得られなかった。そして、少年が生まれたのは冬であったと述べていた。
(3) 家族との年齢比較では少年は次のように述べている。
ア すぐ上の兄T・1は23歳位
イ すぐ下の弟B・Iは16歳位
ウ 兄との年齢差は3歳又は4歳
エ 弟との年齢差も3歳又は4歳
この説明によると、少年の年齢は19歳から20歳ということになる。
(4) また、少年が述べる生活歴によると、少年は5歳のころ、グジランワラ市の私立○○ハイスクールに入学し、3回の転校を経て、最後は国立の△△ハイスクールに学んだが、1985年又は1986年にこれを中退している。この間の学校に在籍していた期間は約9年間であり、中退時の自分の年齢は14歳又は15歳であったという。
退学して数日後に、同じグジランワラ市のスクラップ店に就職、これに約2年半就労して、1988年12月に来日した。来日時の自分の年齢は17歳であると認識していた。
(5) 実父が述べる少年の生活歴でも、少年が学校を中退した時の少年の年齢は14歳から16歳のころだったと思うと述べており、少年の説明とほば符号している。
(6) 少年がスクラップ店に就労していた期間については、警察での供述と相違が認められ、必ずしも明確ではないが、少年の調査での供述が正しいとすれば、少年の年齢は20歳前後となる。
5 年齢についての結論
(1) 少年が16歳以上に達していることは疑う余地がない。
(2) 少年の年齢は19歳、又は20歳である可能性が高い。しかも、19歳よりは20歳の可能性のほうが高い。しかし、いずれとも断定はできない。
第2本件事案について
1 調査面接における少年の送致事実等についての主張は次のとおりであった。
(1) 自分には殺意はなかった。
(2) 被害者をナイフで刺した回数は1回である。揉み合いとなって、2回刺したようにも思うが、その場合でも同じ場所を刺したはずである。被害者の2ヶ所の傷はかなり離れており、傷のとおり2回刺した覚えはない。
(3) 紛争のきっかけは新しいタイ人が会社に訪問してきたことから、自分が失職するのでないかとの危惧を持ち、新しいタイ人を呼んだと思われたタイ人を脅かすことによって新しいタイ人を追い帰そうとしたことにある。
(4) 当該タイ人と短い会話を交わしたあと、自室に戻ってお土産用に買っておいたナイフを持ち出した。当初、言葉などで抗議しようとしたが、言葉も通ぜず、タイ人も取り合う様子がみられないことから、隠していたナイフを取り出して、その柄で被害者の眉間を殴った。止めにきた別のタイ人を脅そうと思ってナイフを突き出したところ、その足に刺さった。同人は万力を持って殴りかかってきたため、ナイフを落とした。
(5) タイ人4人がそれぞれ万力、ハンマーを持って殴りかかってきて、全身を殴られた。
(6) ナイフを拾ったが、後ろからはがいじめにしてきたタイ人をナイフを持った腕で払ったところ、ナイフの柄が当った。前には被害者となったタイ人が立っており、このままでは殺される、邪魔をされたら攻撃してもここから逃げようと思った。
(7) そこで、同タイ人の腕を刺して逃げようとしたら、同人が身をひるがえしたため、同人の背中に刺さってしまった。
(8) 雇い主であるCが信用できなかった。
2 本件についての評価
これまで証拠調べなどが為されてきたわけではなく、詳細な事実を認定することはできないが、少年の面接調査での供述、及び、送致記録などを参考にしながら、所見を述べたい。
(1) 本件は日本に出稼ぎにきて、不法残留を続けながら工員として就労していたパキスタンの少年が、同僚であるタイ人を殺傷したというものである。少年らパキスタン人に代わる新しい労働者と認識したタイ人を、これを連れてきたと思われるタイ人を脅すことによって追い帰そうとしたが、言葉が通じないことから暴力に訴えようとし、さらに、タイ人側でも、言語や、文化の違いから少年が意図していた以上の恐怖感を抱き、攻撃をもって対抗しようとし、さらに、これに恐怖感を抱いた少年が再度の攻撃に転じたことから引き起こされた事件である。前述のように、人種、言語、文化の違いから意思疎通ができなかったこと、雇い主である日本人に対する不信感、被害感が背景にあったことなどが原因となっているものである。本件が殺人なのか、あるいは、傷害致死なのかは、裁判官の判断に委ねるしかないが、面接での少年の主張の内容、態度などからすると少年の主観では殺意はなかった模様である。
(2) しかし、客観的に見れば、特に落ち度のない被害者を死に至らしめており、結果は重大である。しかも、被害者は妻子のある人物であった。また、「脅し」が目的であったにしても、本件は刃渡り約15センチメートルのナイフを持ち出し、最初に暴力的態度に出て紛争のきっかけを作ったのは少年自身であり、その結果本件のような事態に陥ることは最初から予見できたはずであり、その面でも少年の責任は重い。そして、少年は否認してはいるが、被害者を2回刺したことは事実である。さらに、出血などの状況から重大な結果となったことを認識しながら、逃走してしまった。そして、さらに付け加えるならば、面接しての印象では、国民性の違いを考慮しても、少年が今回の事件を深刻に受け止めている様子は見られなかった。以上、客観的に見れば情状は悪質であると言える。
第3処遇選択
少年の年齢を20歳以上と認定できる場合は、少年法19条2項により検察官送致することになり、問題はないが、ここでは、20歳以上とは認定できない場合を想定して所見を述べたい。
(1) 処遇を考える上で重要な要素として、次の4点がある。
ア 手段を尽くしても年齢認定が困難な場合に、少年として扱うか、あるいは成人として扱うべきか。
イ 本件が罪質、情状に照らして刑事処分を相当とする事件であるか否か。
ウ 少年は本件事実について、殺意はなかったと争っているが、本件のような重大な事件においては、家庭裁判所の機能からしてなじまず、対審構造の刑事訴訟法の手続きに委ねるべきであると考えるか否か。
エ 外国人である少年が保護処分になじむか否か。
以下、これらについて、考察を加えたい。
(2) 最初は年齢認定が困難な本少年について、少年と扱うべきか、あるいは、成人として扱うべきかという問題である。早川義郎「少年の刑事被告事件の取扱いについて」家裁月報25巻8号3頁には、「未就籍者の場合などで被告人が少年か成人かいずれとも判別できないときは、被告人の利益に従い、少年として扱うほかないであろう」との見解が示されている。
一方、亀山継夫・赤木孝志「少年法及び少年警察」34頁によると、「手段を尽くしても年齢を認定できない場合には、少年であることの積極的な資料が得られないのであるから、少年についての特別法である少年法は適応できず、一般法たる刑事訴訟法に従って処理するしかない。」との見解が示されている。また、法務総合研究所教材「少年法」(土本武司)36頁でも同様の見解が示されている。
前者は刑事事件における考え方を示したものであるが、少年法においても、これと違う見解を取るべき特段の理由はなく、少年法においては、まして少年の利益に従って扱うべきであるとの見解につながるものと考える。前者の見解を採用したい。とすれば、少年の年齢だけをもって、検察官送致決定相当とは言えない。
なお、判例には、少年の自供のみによりその年齢を認定したものがある。宮崎家裁都城支部昭和43年4月9日決定、家裁月報20巻11号199頁。少年は自分の生年月日を1971年5月27日と主張しているが、しかし、これは事件後に少年が実父から聞いて認識したものといい、その父は少年の生年月日を1972年1月10日前後と主張しており、その他、鑑定や社会調査の結果、少年の主張のとおりには認定できないことから、少年の主張をもって検察官送致相当とは言えない。
(3) 次は事件の内容から刑事処分相当といえるか否かの問題である。阿部純二「保護と刑罰」刑法雑誌18巻3・4号23頁によれば、「特に思い罪、たとえば法定刑の下限が7年以上の罪については刑事処分を原則とする。」との見解が示されている。本件はこれには該当はしない。しかし、日本に出稼ぎにきたものの、雇い主への不信感や被害感をベースに、同僚の異国人との間で、言葉が通じないことによる誤解がきっかけになって生じた事件であり、環境要因の強い、急性非行であることを考慮しても、本件は殺人であり、紛争のきっかけは少年自身が作っていること、人を殺傷することが十分可能なナイフで2回刺していること、逃走したことなど、情状は悪く、刑事処分に付すことは当然考慮されてしかるべきである。
(4) 次は事実に争いがある事件については、対審構造の刑事手続きによって審理するのが相当か否かとの問題である。これについては、否認事件ということだけで検察官送致をすることは許されないとの説が多数説である。家庭局の見解も、罪質、情状に照らして刑事処分が相当でないと思料されるような事件について、検察官に送致することは問題であるとしている。(昭和43年2月全国少年係裁判官会同家庭局見解家裁月報20巻11号40頁)これに対し、市村光一「少年審判における否認事件をめぐって」家裁月報昭和26年7号59頁では、「否認の殺人事件などは、概していえば、家庭裁判所においては余り深入りすることなく、一応、少年法20条により、検察官送致すべきであるということになる。」とされている。本件は殺人事件であり、少年は殺意を否認していること、前項で述べたように罪質、情状から刑事処分に付すことが十分考えられる事件であることから、対審構造の刑事手続きによって審理するのが相当であると考えられる。また、本件は少年も被害者も、そして、目撃者も外国人の事件であり、しかも、言語が日本においては特殊で通訳人がごく限られていることなどから、4週間という限られた時間では十分な審理を尽くすことは、現実的に不可能である。理論的には観護措置を取り消すこともあり得るが、身柄保全の面でも現実的ではない。
(5) 最後は保護処分になじむか否かという問題である。
これについては、積極説と消極説とがあるが、本少年の場合は、英語などとは違ってウルデゥー語又はパンジャビ語という日本においては、ほとんど理解する者がいない言語を用いるパキスタン人であり、少年院における矯正教育は実効力はほとんど期特できない。保護処分の実効性に疑問があるので、保護処分にはなじまないと考えたい。
以上を総合すると罪質、情状に照らして刑事処分に付すのが相当であり、よって、少年法第20条により、検察官送致とするのが相当であるとの結論に至った。
以上
〔参考6〕鑑別結果通知書<省略>
〔参考7〕簡易鑑定書
簡易鑑定書
第1 緒言
平成3年7月26日、宇都宮家庭裁判所裁判官北野俊光氏は○○医科大学法医学・人類遺伝学教室において、国籍パキスタン回教共和国H・Zについて、次のような鑑定するよう私に嘱託されました。
鑑定事項
H・Zの骨格について、宇都宮市○○町、○○整形外科病院で摂影したエックス線写真フィルム及び同病院○○医師の第3大臼歯萌出確認の状況などを資料として、
1.H・Zの年令
2.上記外国人が満16歳以上である確率
3.上記外国人が満20歳未満である確率
以上
よって、私は平成3年7月29日及び同年7月31日に撮影された同人のエックス線写真フィルム8枚及び4本とも第3大臼歯が萌出している事実などを判断資料として、さらに○○医科大学教授○○博士の著書中の資料を人種間補正データとして用い、次のように鑑定した。その結果にもとづいて本鑑定書を作成した。
第2 鑑定結果
8枚のエックス線写真フィルムについて、H・Zの骨格の16箇所(主として骨端線及びその付近)を詳細に点検観察し、さらに第3大臼歯萌出の事実も加味して、次のように鑑定する。
1.H・Zの年令は18±1歳と判断される。
2.上記の者が満16歳以上である確率は90%以上と推測される。
3.上記の者が満20歳未満である確率も90%以上と推測される。
以上
なお上記鑑定は平成3年7月26日に着手し、同年8月7日に終了したものである。
平成3年8月7日
栃木県河内郡○○町○○××××
○○医科大学法医学・人類遺伝学教室
鑑定人同大学教授、医師○○
(栃木県小山市○○町×丁目××の××)